哈瑪星-興演計劃
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興濱(シンビン)計画とは

Plan

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(1)「興濱計画」とは?

哈瑪星(ハマ星)は台湾初となる埋立地を利用し、現代的に区画整理された現在の高雄の原点です。哈瑪星は高雄市で最初に水道水、電力(工場)、電灯(住宅)、電話が導入された地域です。また、最初に現代的な市場、最新鋭の港や鉄道、そして駅が建設された地域でもあります。百年前に築かれた港、高雄の成長を描いています。かつての光景は消失しましたが、独特な風景、豊かな文化遺産、山や海の景色、高雄の歴史的な雰囲気はかすかに残っており、後世に残していきたいと思っています。駁二芸術特区(バクニゲイジュツトック)の成功により、たくさんの人々を惹きつけ、哈瑪星の港の繁栄が再現されました。更に、山への親交、築港、鉄道を復興すること、そして哈瑪星浜辺を新しくするという4つのテーマを中心に、興濱計画の第二部として徐々に哈瑪星の歴史を再興させます。現在の高雄市が一変し新たな歴史が輝きます。本計画は4つのテーマに分かれており、山への親交、築港、鉄道の復興と町の開発です。

山への親交

史温候(ロバート・スウィンホー)英国駐台副領事は以前、寿山(ショウシャン)で生態調査を行った際にタイワンザルを発見しました。1929年に日本人が寿山の山腹で「高雄神社」(現忠烈祠)を建てました。寿山は神社の設置により重要な政治の象徴となりました。また、高雄港から台湾入港時に最初に目にするものでもあるため、大きな意味を持ちました。寿山は豊富な生態資源と歴史的意味も備えているため、私達は現存の自然遊歩道の状態を改善し、山のハイキングコースと観光スポットまでを繋ぎ、哈瑪星と寿山の間に良質で趣のある観光ルートを整備されることを期待しています。

築港

オランダ統治時代の打狗(高雄)は小さな漁村から漁港にまで発展し、明朝の鄭成功(テイセイコウ)がオランダを追い出すまで屯田で開墾しており、魚類と塩の生産高が増加しました。清朝統治時代に軍備と海防が発展し、旗後山(チーホウシャン)に砲台が設置されました。その後天津条約により、清朝同治二年(1683年)には打狗に税関が設立されました。打狗港の対外貿易の発展と共に徐々に勢力を増していきました。当時の貿易の往来は旗後の港と哨船頭の近辺のみで行われており、高雄の築港建設と市街地域の建設企画は日本統治時代から著しい発展を遂げ1908年から1945年まで計三回の築港が行われました。世界大戦後、まず戦争で破壊されたものを十年をかけて修繕し、そして1958年に十二年拡建工程(埋め立て作業や埠頭の設置等)が実施されました。完成後、1970年から二十年でコンテナ輸送センターをはじめ、様々な各改善工事も急速に行われました。この築港の歴史から見て、浜線は打狗港の築港に大きく貢献しました。スムーズな陸海の輸送システムを構築し、そこから打狗鉄道と港口の切っても切れない関係を形成しました。二十世紀の高雄港の価値を生み出すだけではなく、「哈瑪星」も当時の最も繁栄した政治金融の中心地となりました。
二号ドック(船の建造などのための施設)は浜線鉄道の終点であり、日本統治時代では商品の海外輸送における物流センターでした。二号ドックは沢山の倉庫を持つ上に魚市場に近いため、哈瑪星の生活や産業と直接的な関わりを持っていました。しかし、漁業組合の前鎮(ゼンチン)への移転に伴い漁業で盛えた哈瑪星はどんどん衰退しました。今では街の後ろに身を隠し、長い間忘れさられた存在となってしまいました。また、哨船頭(ショウセントウ)の臨港地区は新たに建設された建物の隔たりにより、港の関係が切断され、都市景観に違和感を与えました。また、周辺の古跡や歴史的建造物、雄鎮北門(ションジェンベイメン)と打狗英国領事館などの観光名所の魅力が半減しました。
この計画は鉄道文化園区と二号ドックの広いスペースをつなぎ合わせ、浜線が打狗港の築港を先導し繁栄した歴史を二号ドックに取り戻すためのものです。また、雄鎮北門及び哨船頭の臨港地区の歴史ある古い町並みを整理して、哈瑪星の昔の姿を再現します。

鉄道の再開発

哈瑪星の発展は鉄道無しには語ることができません!1900年に台南から打狗段までを貫通する鉄道が完成し、最初の打狗臨時駐車場は寿山の山麓にありました。同年の打狗港の貿易総額は安平港(アンピンガン)を上回り輝かしい成長を見せていました。しかし、駐車場が積み下ろすための埠頭から少し距離があること、また打狗港の地理的条件に欠点があることから、陸海運輸との接続に難がありました。それにより、駐車場建設後には貿易総額での新記録を樹立しましたが、数年間に渡り成長幅は極めて限定的でした。1904年、鉄道部はようやく土砂の除去や干潟の埋め立て、鉄道の拡張等の手段を考え出しました。駐車場から第一ドックまでの土地で比較的大規模な運転区、扇形車庫、石炭庫、旅客ホーム、歩道橋と駅舎等の施設が最初に完成し、南方へ向かう浜線が建設されました。続いて1908年の築港計画が実施され、哈碼星と高雄の発展が遂げられました。繁忙期の高雄駅では、一日の平均売上額が100万台湾ドル(およそ300万円)を記録しました。哈瑪星地域は現在も多くの台鉄(台湾鉄道)の資産を保有しています。それらは国家資産でもあり、人々から保護や活性化が強く望まれています。

埋立地と打狗港の築港は密接な関係があります。1904年築港の時から、港内の土砂を取り除きながら打狗山の土石を周辺の港湾に埋め、先に打狗駐車場から現在の第一ドック「浜線」とその周辺の地域を完成させました。埋立地は鉄道のために使用される以外にも、周辺地域に約16棟の倉庫を新たに建設しました。各棟は七千袋の米と砂糖、全部で約十万袋を蓄えられる程の大きさを備えていました。このことから当時の貨物輸送がとても盛んであったことが分かります。(参照:文化局による依頼、高雄師範大学『高雄市「哈瑪星」歷史研究及其歷史性建築物文史調查計畫』)。鉄道、倉庫と海運を統合してから、貨物輸送の効能と利益が上がりました。それから港湾地域の1908~1912年、第一期の築港や第一号、第二号 埠頭、浅水ドック(第三ドック)や約七万坪の哈瑪星の土地の埋立て(=後の湊町)等が始まりました。埋立地計画は日本商人の浅野総一郎が提出したものであり、鳳山県庁に埋立て申請を提出し、1908年から六期に分けて工事しました。1912年3月に完成しました。埋立地の総面積は67,722坪となりました。浜線沿線の地域は新濱町、その他の大部分は湊町となり、埋立地の一部は山下町、哨船町,田町、塩テイ町、崛江町及び旗後町等になりました。現在の哈瑪星地区は山下町一丁目、新濱町一丁目と二丁目、そして湊町一丁目から五丁目までの地域を指します。当時の都市計画には日当たりと空気循環などの衛生問題を考慮し、山から当時の哨船頭漁港まで道路を延伸し、時計回り32度ずつそれぞれのブロックが区切られました。更にそれぞれのブロックは四面中の三面に日が当たることを原則として整備され、環境を考慮する日本人の知恵を盛り込んだ都市計画となりました。哈瑪星は初めての現代的に区画整理された街であると同時に、打狗地域では初めて水道水、電灯、電信、電力を使う街であり、日本統治時代初期の打狗の政治、経済、文化そして教育の中心地でした。哈瑪星は多くの史跡と歴史的建造物、日本統治時代の建築も残存しています。遺跡修復の他、私達は哈瑪星の歴史的な市街風景の再現により、街、住宅、空間等の文化資源を繋げ、哈瑪星の独特な
歴史を感じさせる生活空間を作ります。

(1)「興濱計画」が及ぶ範囲は?

主な実施範囲:西側と北側は寿山を境とし、東は哈瑪星の旧軌道まで、南は高雄港の水岸地域までです。

(1)「興濱計画」が及ぶ範囲は?
(3)「興濱計画」の参画者は?

(3)「興濱計画」の参画者は?